- 邪馬台国を最初にヤマタイコクと読んだのは本居宣長である
-
嘘。
『馭戎慨言』で『後漢書』を引用した中で、
「邪馬臺」には「ヤマト」としっかりルビが振ってあります。
「邪馬臺国」は「ヤマトノクニ」と読みます。
『魏志倭人伝』の引用中の「邪馬臺」にはルビは振られていませんが、
宣長は熊襲の類が大和朝廷をかたったと言っているのですから、「ヤマト」と読んだことは間違いありません。
この間違いはWikipediaの「邪馬台国」の記事を始めとしてあちこちに書かれていて、
井沢元彦氏の『「常識」の日本史』の中にも同様の事が書かれています。
決まって出典はなく、「〜なのです」とか「〜と考えられている」とかの言葉で、
あたかも通説であるかのように根拠もなく断定しています。
- 本居宣長は「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」という立場から、
邪馬台国を大和国ではなく筑紫の小国であるとし、卑弥呼は熊襲の女酋長であるとした
-
ほとんど嘘だが一部だけ本当。
宣長は基本的に邪馬台(ヤマト)国は大和国、卑弥呼は神功皇后のことであると考えました。
その上で、魏と通好を持ったのは神功皇后をかたる偽物であると主張しました。
『魏志倭人伝』の記述から、魏の使者が来たところは九州としか考えられないからです。
また宣長はこの偽物を熊襲の類とは言っていますが、女酋長とは言っていません。
むしろ王は男だっただろうと推測しています(『馭戎慨言』)。
「『日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない』という立場から」などというのは、
何の根拠もない憶測です。宣長の学問の特徴は、憶断を持たず、古い文献によって物事を
明らかにすることです。文献によらず、自分の好みの結論に理屈を付けて強弁するような事は、
彼が最も嫌ったことです。
- 本居宣長は邪馬台国を九州の国にするために、『魏志倭人伝』の中の「一月」を「一日」と読み替えた
-
ほとんど嘘だが、一部だけ本当。
宣長が「月の字は日の誤りだろう」と指摘したのは事実ですが、
それは魏の使者が来たのが大和ではないことを立証する流れの中で言ったことです。
簡単に言えば、「月は日の誤りだろうが、一月でも一日でも、大和への行程としては計算が合わない」
と言ったのです。
魏の使者が来た場所が九州であることは、別に根拠を示しています(『馭戎慨言』)。
「邪馬台国を九州の国にするために」に至っては、そのような強弁は彼が最も嫌ったものです。
ところでここでいう「誤り」とは、必ずしも原典の誤りという意味ではありません。
写本で伝わる古文書というものは、写す度に誤りが入るのが普通で、学者が研究する際には
なるべく多くの本を集めて校合するのが常識です。
特に「日」「月」のような似た文字は誤り易く、それが未知の地理に関する距離の情報であればなおさらです。
- 本居宣長の敷島の歌は、ちり行く桜が武士道精神を表現している
-
嘘。
敷島の歌とは、宣長六十一歳自画自賛像に書かれた「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の事です。
大和心とは大和魂と同義で、シナの文化を輸入する以前からある日本人の精神を表します。
大和心も大和魂も平安時代からある言葉で、後の時代の武士道精神とは関係があるはずもありません。
もちろん宣長がこれらの言葉を武士道精神の意味で使うことはありません。
新渡戸稲造氏の「武士道」という書物には、敷島の歌を引用して、大和魂を武士道精神と
同一視するような記述がありますが、これは新渡戸氏の意見に過ぎず、根拠も示されておりません。
同じ間違いがあちこちに見受けられるのは、誤った情報を鵜呑みにした人が、
また別の場所に受け売りのまま書いているのでしょう。
しかし最初の発信者は恐らく嘘と分かっていたのではないでしょうか。
匿名百科辞典(Wikipedia等)や匿名掲示版(2ちゃんねる等)の情報を安易に信用するのは危険です。
特に出典が書かれていないものは大体眉唾物と考えた方が賢明です。