私達は日頃何気なくシナを「中国」と呼んでいますが、実はこれはとても異常な事です。どう異常なのか、そしてなぜこんな異常な事が起きてしまったのかをまとめてみました。
ところが紛らわしい事に、なぜかマスコミはシナを「中国」と呼び、中国のことをわざわざ「中国地方」などと脇に押しやったような言い方をしています。先日も「中国で『讃岐うどん』商標登録申請、香川県が異議へ」という見出しの新聞記事がありましたが、記事の内容は「シナ人がシナの国内で日本の商標を申請した」というものでした。それなら「シナで『讃岐うどん』商標登録申請、云々」と言うべきです。先ほどの見出しでは、まるで瀬戸内海をはさんで中国と四国がもめているみたいです。
2007年、中国にある中国食品工業という会社が倒産しました。当時はシナ産の食品の安全性が世界的に問われた時期で、社名の「中国」がシナの事と勘違いされ、「シナの食品を専門に扱う会社」と思われて取り引きが激減したのでした。安全な食品を求めるのは当然のことですが、問題にされていたのはシナ産であって、中国産ではありません。
シナの「中國銀行」が日本に進出した際、中国の中國銀行との表記の衝突が問題になったこともあります。この時なぜか本家中国の中國銀行の方が、「國」の字を「国」に変え、支店のぶつかる場所では「本店岡山市」という記述を追加して対応したそうです。これは本当に妙な話です。シナの銀行の方こそ「支那銀行」とか「バンクオブチャイナ 本店北京」とかに変更するべきでした。そもそもなぜシナの銀行に、日本の地名である中国の使用を許したのでしょうか。
こんな異常な出来事が起こるのも、日本のマスコミがシナをかたくなに「中国」と呼び続けているためです。そのため日本人の多くが、中国と聞けばシナの事だと思うようになってしまいました。
一方、一般に日本人がシナを「中国」と呼び始めたのは戦後の事ですから、まだ六十数年(2009年執筆時点)の歴史しかありません。また「中国」と呼び始めた時点で、中華民国(建国1912年)はまだ三十数年の歴史しかなく、中華人民共和国(建国1949年)に至っては存在すらしていませんでした。
ということは、千百年以上も在り続け、使われ続けて来た日本国内の由緒正しい地名を脇に押しやって、海外にある新興国の略称を優先させていることになります。なぜこんな不自然な事が起きてしまったのでしょうか。
中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり,現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては「今後は理屈を拔きにして」とあるとおり、理屈の通らない無茶苦茶な押し付けであることは明らかです。当時の日本は敗戦によって民主主義を封殺され、GHQによる野蛮な検閲と洗脳に支配された時代でしたが、それでもこんな暴力団の脅しのような要求に屈した外務官僚には大いに責任があると思います。中華民國、中國、民國。などのいづれを用ひるも差支なく唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華(昭和21年6月7日付「中華民国の呼称に関する件」より引用)
しかしよく読むと、支那と呼ぶべきでないとされているのは「中華民国」つまり台湾のことです。また「中国」の他に「民国」という候補も挙げられていますから、こちらを使えば無用な混乱は避けられたはずです。わざわざ問題のある「中国」の方を使い、さらには中華人民共和国にまで「中国」という名称を適用したことは、マスコミの過剰適応であり、外務官僚と同罪と言えるでしょう。
このような洗脳により、最近まで日本人がシナをシナと呼んでいた事実も歴史から消し去られてしまいました。それでも個人の中にはいまだにシナと呼ぶ人はいるのですが、マスコミがこぞってシナを強引に「中国」と呼び続けるものだから、逆にシナと呼んでいる人達の方が何か特別な意図を持った人のように思われています。
『広辞苑』には、「支那」とはシナに対する外国人一般の呼称であると書かれています。
支那(しな)インド人の「シナ」という呼称に「支那」の字を当てたのは当のシナ人です。そしてシナ人自身も自国を支那と呼んでいました。国父とされる孫文も自国を支那と言っています。差別語であればシナ人は使わないはずです。
(「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
一方日本人は、元々シナを「から」「もろこし」と呼んでいました。「支那(シナ)」と呼び始めたのは外国人の影響です。江戸時代の学者・本居宣長(1730-1801)は、『玉がつま』の中で、日本の学者が外国の真似をして「支那」と呼ぶことを批判しています。
もろこしの國を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇國のことなるを、しかいふをばつたなしとして、中華中國などいふを、かしこきことゝ心得たるひがことは、馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらにいはず、又中華中國などは、いふまじきことゝ、物のこゝろをわきまへたるひとはた、猶漢もしは唐などいふをば、つたなしとやおもふらむ、震旦支那など書くたぐひもあんなるは、中華中國などいふにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる國より、つけたる名なれば、そもなほおのが國のことをすてゝ、人の國のことにしたがふにぞ有ける、もし漢といひ唐ともいはむを、おかしからずとおもはゞ、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ、このことからも、「支那」は「日本人だけが使った言葉」ではない事が明らかです。むしろその呼称が世界標準だったために、日本人までが使うようになったというのが真実です。
これは今も同じです。下記の一覧表は、世界の国々がシナを何と呼んでいるかをまとめたものです。これを見ると、国毎のなまりはあるものの、多くの国が「シナ」に基づく呼び方をしていることが分かります。英語の「チャイナ」もシナが変化したものです。朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」のみが「中国」に基づいた呼称のようです。ペルシャ語の「シニスタン」は「震旦(しんたん)」と同源で、やはり「秦(しん)」が元になっています。
「China を『中国』と呼ぶ重大な過ち」中嶋嶺雄(WiLL 2006年9月号)より引用
2000年、シナの巨大ポータルサイト 新浪(sina.com) に対して、日本に留学経験のあるシナの学者が抗議をしたことがありました。「Sina は日本による差別語だから改名するべきだ」と言うおなじみの主張です。それに対して sina.com の代表者は「Sina(シナ)は英語のChina(チャイナ)の過去の発音で、それ自体に侮辱の意味はない」と言って拒否したそうです。さらに続けて「Sinaを世界のブランドにし、シナ人が誇れる呼び名にする」と言ったそうです。至ってまともな意見です。
大体「シナ」を差別語だと言い張るシナ人は、日本にいて日本のマスコミ報道に接した人が多いようです。もしシナにいるシナ人が sina.com の名称を嫌がっているとしたら、わざわざ日本に留学した学者に指摘されるまでもなく、最初から大騒ぎになっていたはずですし、間違っても人気サイトなどにはならなかったでしょう。
さて彼らが「支那と呼ぶな」という時、必ずその後に「中国と呼べ」が続きます。これはなぜでしょうか。それを理解するには「中国」「支那」の言葉の意味を正確に知る必要があります。
シナの皇帝は自国を「中国」と尊称で呼び、臣下の国にも「中国」と呼ばせました。だからシナの忠実な臣下である朝鮮などは、シナを「中国」と呼びました。つまり他国を「中国」と呼ぶ国は、その国の臣下の国に他ならないという事です。これに似た働きをする言葉には「ご主人様」や「親分」などがあります。ある人を「ご主人様」と呼ぶ人は、その人の召使いであることは明らかです。ある人を「親分」と呼ぶ人は、その人の子分に違いないでしょう。
日出づる処の天子が日没する処の天子に手紙を送る天子が二人になっています。続いて送られて来た二通目の国書は次のようなものでした。
(日出處天子致書日沒處天子)
東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます天子にしか許されないはずの「皇」を名に持つ元首が二人います。
(東天皇敬白西皇帝)
言うまでもなく、これは日本がシナに送った国書です。共に聖徳太子の手によるものとされていて、前者はシナの歴史書『隋書』に、後者は日本の歴史書『日本書紀』に記録されています。
先に述べた中華思想の世界観を理解していれば、この二つの国書が提示しているものが、共に「二つの中国」という新しい世界観であることがお分かりでしょう。これは一つの中国を前提とするシナ人の中華秩序を否定するものでした。隋の煬帝は不本意ながらもこの国書を受け入れています。それ以来アジアには二つの中国があり、互いに張り合って来たわけです。
この新しい秩序を受け入れなかったのは、シナよりもむしろシナの属国の朝鮮でした。明治時代に日本が朝鮮に修好を申し入れた時も、国書に「皇」の字が使われていると言って拒否しました。今でも朝鮮人などが、天皇という呼称を嫌って「日王」などと言うのは、この「二つの中国」という世界観を認めたくないからです。日本国内にも、執拗に聖徳太子の存在を否定し、大和朝廷を「ヤマト王権」と言い換えたがる勢力がありますが、まったく同じ発想です。「朝廷」は天子が政治を行う場、「王」は皇帝の臣下であることを思い出して下さい。「大和」を「ヤマト」に置き換えるのは「大」が敬称だからです。
朝鮮人やベトナム人がシナを「中国」と呼ぶのは、臣下の国としての長い歴史を反映したものなので問題ありません。日本人がそう呼んではいけないのは、日本の歴史を反映していないからです。私達は敗戦と共にそういう間違った呼称を巧妙に押し付けられたということです。本を正せば「中国」の意味や聖徳太子の国書の意味を教えない学校教育に根本的な問題があります。
(写真は「大清国属高麗国旗」)
しかし日本と清の関係は悪化しませんでした。清の故国である満洲は日清戦争の後ロシアに占領されていましたが、日本は1904年の日露戦争を戦ってロシアを追い出し、清の手に取り戻しました。さらに日本は満洲の地にインフラを築き、治安を守り、産業を発展させました。この頃からおびただしい数のシナ人が満洲に移住してきました。一方清は日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうとして、大量の留学生を日本に送りました。今日のシナで社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われるのはそのためです。
下の地図は清の支配領域の全体を表したものです。いわゆるシナとは「漢族」と書かれた領域のことです。清の領土を引き継ぐという事は、シナ人の領土だけではなく、満洲、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべてを自分の支配領域にするということです。辛亥革命は元々シナ人の民族独立運動だったはずなのに、いつのまにかシナ人による他民族の支配という別の目的に切り替わっていたのでした。例えて言うと、強盗団に捕まっていた人質の一人が自由の身になったとたん、「強盗団の財宝も人質もすべてを自分のものだ」と主張し始めたようなものです。
『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著 より引用
支那 = 漢族の領土
中国 = 漢族の領土+満洲族の領土+モンゴル族の領土+ウイグル族の領土+チベット族の領土
結局第二次大戦後、シナは満洲国をまんまと自分のものにし、日本が多額の投資をした満洲の産業をも手に入れました。しかしそれまで満洲は、歴史上ただの一度もシナの支配下になったことはありませんでした。それなのに満洲国の建国を助けた日本は、いつのまにか「中国を侵略した」ということにされています。
その後シナは、モンゴル人(一部は独立)、ウイグル人、チベット人に対する侵略、抑圧、虐殺を繰り返し、それらの地域に大量のシナ人を流入させて民族浄化を推し進めています。シナ政府はこれらの地域で起きていることをひた隠しにしてきましたが、亡命した人々が世界中で声を上げるにつれ、次第に世界の人々もそこで何が起きているかに気づき始めました。シナ政府は世界からの批判に対して「内政干渉だ」と言って反発していますが、本来これらの国々は、清が倒れた時に満洲国のように独立するべきでした。
[2009/9/13]
支那という呼称についてさらに詳しく知りたい方は、「『支那』の語源についての考察」についての考察もお読み下さい。「いままで自分はだまされていた」と感じた方は、[広告]なぜ江戸時代の書を読むべきなのかもお読み下さい。
Baidu.jpからは本ページをどうしても検索できないことが分かりました。どうやら検閲をしているようです。皆さんも試してみてください。Baidu.jpでも本ページが表示されるようになりました。露骨な検閲が、かえって評判を落すということを理解したのでしょうか。(2012/4/19)
Baidu.jp が検索サービスを終了しました。2015年3月頃に終了していたようです。
Googleで本ページが検索できなくなりました。検閲が始まったようです。"支那、中国"だけではなく、"シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由"(タイトルどおり)でもヒットしないので、検閲は明らかです。皆さんも試してみてください。(2023/9/13)
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