「『支那』の語源についての考察」についての考察


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「『支那』の語源についての考察」という一文があります。これは1999年5月7日付けの『人民日報』に掲載されたもので、シナを「支那」と呼ぶことは相応しくないということを述べたものです。その中には有用な情報も含まれており、突っ込み所も満載なので、逐一引用してコメントを付けてみます。引用部分には一貫して、

「『支那』の語源についての考察」からの引用
という形式の枠を使用致しました。また引用文は姜波氏が記事を日本語に翻訳してくださったものを使用致しました。


東京都の新任の知事石原慎太郎氏は「支那」という言葉で中国を蔑称したのちに、「支那」の語源についてはさだかではないと弁解している。しかし、石原氏は一九九六年、香港の記者のインタビューに応じた際、「世界じゅうでは一般的に貴国を中国と称しているが、私はそれを『支那』と呼んでいる。聞いた話では『支那』と呼んではいけないそうだが...。その理由はこの二つの漢字がよくないからだ」と語った。この発言を見ても分かるように、石原氏は誠実さに欠ける人で、氏が中国を「支那」と呼ぶのは下心があってのことである。ここに掲載されている文章は「支那」という言葉の意味とその歴史的変化を明らかにし、それによって世人に正しいことをお伝えしたい。編集者
まずここに書かれた「都知事の発言」なるものは明らかに間違っています。世界中がシナを「中国(チューゴク)」と呼んでいるというのは完全な間違いです。シナを「中国」と呼ぶのは朝鮮(チュングク)とベトナム(トゥルンコック)と戦後の日本くらいです。下記に示す通り、世界のほとんどの国はシナを「シナ」もしくはその変形で呼んでいます。

他の国々では China をどう呼んでいるか

「China を『中国』と呼ぶ重大な過ち」中嶋嶺雄(WiLL 2006年9月号)より引用

こういう事はシナ人である筆者はよく分かっているはずです。字がよくないという話については後述します。
言葉は思想を表すキャリアーとして、常に時代の烙印を押され、歴史の変遷の痕跡を残すものである。「支那」という呼称もそうである。考証によると、「支那」はCina の音声に基づいた漢語訳で、古代インドにおける古代中国の呼称であって、サンスクリットの仏典の中に一番最初に現れたものであると言われる。Cinaは異なった言葉では、その発音の変化は大きくなく、「China」、「支那」、「脂那」、「至那」、「震旦」と音訳されている。Cinaの語源に対するさまざまな見方に基づけば、そのもともとの意味合いも違ってくる。代表的な見方は四つある。
  1. Cinaはサンスクリットで中国の「絹糸」を示すものだとされている。  古代インド、ペルシア、古代ギリシアの人々は中国の絹糸(サンスクリットのCina)  を用いて中国を呼称していた。
  2. Cina は秦国の「秦」のサンスクリット音訳で、Cinaのサンスクリットの意味は  「秦の国」であり、古代インド人の秦・漢時代の中国に対する呼称である。
  3. Cinaはサンスクリットで「辺ぴで遠いところ」を示す言葉である。
  4. Cinaはチャン(羌)族のことを指す。
Cinaがインドに現れてから西洋に伝わり、中央アジア経由でヨーロッパに伝わり、英語の中に入って、今日の英語の中の「China」として次第に定着した。ローマの宣教師が一六五五年に一番最初に提出したChinaは秦国の「秦」の音訳である。Chinaという言葉が現れる以前はヨーロッパの中国に対する呼称はほとんど Cinaの発言から来るものであったが、ただ異なる言語によって違いが少しあっただけである。サンスクリットのCinaが東方に伝わり、中国と日本に伝入すると、「支那」、「脂那」、「震旦」などに漢訳された。サンスクリットのCina が古代中国に伝来してから、古代中国ではサンスクリットのCina は「震旦」と漢訳された。 Cina(震旦)は外国人(最初はインド人)による古代中国の呼称として用いられたが、中国人は一般にそのようには使わない。
末尾の太字部分の説明の中で、「支那」と「震旦」を巧みに使い分けてミスリードを誘っています。

まず「中国と日本に伝入すると『支那』、『脂那』、『震旦』などに漢訳された」という言い方は、実際にはシナで行われたこれらの漢訳が、シナと日本のどちらで行われたか分からないようにわざとぼかしています。さらにこの後「震旦」についてはシナ国内で漢訳されたとわざわざ断わっているので、まるで「支那」はそうではなく、日本人が漢訳したかのように読めてしまいます。実際は「支那」も「震旦」もシナ人自身が当てた表記です。「大字林 第二版」には「支那」について次のように書かれています。

しな 【支那】
外国人が中国を呼んだ称。「秦(しん)」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次大戦末まで称した。
「大辞林 第二版」(三省堂)
シナで「支那」という表記が生まれたのははるか昔の事で、日本で一般にその表記が使われた始めたのはつい最近(江戸時代)のことです。だから日本人は既にあった「支那」「震旦」という表記を受け入れただけであることは明らかです。

またシナ人は「震旦」を自国の呼称として使わないと言っていますが、この文の流れでは、「支那」もそうであるように勘違いする人もいるでしょう。これもミスリードを狙った文です。「支那」という言葉は清国下のシナ人が自国の呼称として盛んに使っています。国父・孫文も文豪・魯迅も使っていたことはよく知られています。「『支那』は日本人だけが使った差別語である」というデマが流れたことがあるので、あえてそのデマを否定しないような言い回しをしたのでしょうか。ですからこの文は、

「サンスクリットのCinaが東方に伝わり、古代シナに伝入すると、「支那」、「脂那」、「震旦」などに漢訳された。Cinaは外国人(最初はインド人)による古代シナの呼称として用いられ、今日においても世界中で広く用いられている。「支那」の語は辛亥革命当時、シナ人がシナをさす言葉として盛んに用いられた。」
と直すべきです。

さて今になって一部のシナ人は「『支那』は悪い字である」と言います。「本流から枝分かれした支流を意味するから悪い」というのですが、「支流が悪い」という理屈も、「だから使うな」となる理由もよく分かりません。そもそもシナ人が自分で字を当て、国父・孫文も文豪・魯迅も使っていた「支那」の表記を、いまさら「悪い字だから日本人は使うな」と言われても、日本人は困惑するばかりです。

また元々外国人による呼称であるというのはその通りで、日本で言えば「ジャパン」のようなものだと思いますが、「だから日本人は使えない」ということにはなりません。むしろ他の外国人も使っているのですから、日本人も大いに使っていいはずです。

一衣帯水の隣国として、日本と中国は昔から密接な付き合いがあり、日本人が使っている漢字は二千年近くの歴史をもっている。唐文化に代表される中国文化の極めて深い影響を受けたため、日本は中世以前、中国の王朝の変化にしたがって、中国に対する呼称の主なものとして「唐国」、「大宋」、「大明」、「清国」などを用いるようになった。Cinaが日本に導入された後、大多数の音訳は「支那」となった。『広辞苑』の解釈では、「支那」は「外国人の中国に対する呼称(「秦(しん)」の転訛)。初めインドの仏典に現れた」となっている。日本では「江戸時代(一六〇三〜一八六七)中期以降、用いられていた」。十九世紀中期までは日本人は「支那」を用いて中国を呼称していたが、それは「唐国」、「清国」などの呼称とは意味の上での違いはなく、特別な政治的意味合いもなかった。
さてここで、根本的な間違いを指摘しておきます。シナ人が国名として「中国」と言い始めたのは中華民国建国以降のことであって、それより前の歴史に国名として「中国」という言葉を使うのは誤りです。これは漢字の歴史とは関係がなく、国名としての中国は中華民国建国から数えても高々100年の歴史しかありません。それ以前に「中国」と言っていたのは、自国の尊称(普通名詞)としてであって、国名(固有名詞)としてではありません。シナを「中国」と呼んでいたのはシナ人とシナかぶれの儒学者を除けば、朝鮮・ベトナムなど、シナの属国の人達だけです。

日本が隣国を「唐国」、「大宋」、「大明」、「清国」と呼んでいたのは事実です。これはとても正確な表記ですが、その隣国とは必ずしもシナの事ではありません。もともとシナ人は、自国を「中国」と尊称で呼び、満洲人などを「夷狄」(野蛮な異民族)と呼んで見下していたのですが、清国とはその「夷狄」たる満洲人の国家です。満洲人に国を奪われ、満洲人の支配者を「天子」「皇帝」と呼ばされていたのが清国下のシナ人の実態です。江戸時代の学者・本居宣長は『古事記伝』第一巻の『直毘霊』の中で、当時のシナの置かれた状況を次のように述べています。

漢國などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、もとよりみだりなるが、世々にますます亂れみだれて、終には傍の國人に、國はことごとくうばはれはてぬ、其は夷狄といひて卑めつつ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取つれば、せむすべなく天子といひて、仰ぎ居るなるは、いともいともあさましきありさまならずや、かくても儒者はなほよき國とやおもふらむ」
『直毘霊』 - 本居宣長
「漢國」とはシナの事で、「傍の國」とは清国の事です。江戸時代の学者は今日の学者とは違い、シナの歴史を正確に認識していた事が良く分かります。
中日甲午戦争(日本では「日清戦争」と言われている)以前、日本で一八八八年に印刷された日本軍必読の『宇内混同秘策』という本では、「支那」の呼称で中国を指し、しかも軽蔑的な態度で中国人のことを取り上げていたが、「支那」という言葉は中国に対する差別とはまだ直接つながっていなかった。
この方は日本人がシナを「支那」と呼んでいた事実と、日本人がシナ人を軽蔑していた事実を示しながら、「支那」という呼称と軽蔑とは結び付いていない事を認めています。これはとても重要な事ですので、後で再びふれます。
日本の社会が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意味を込めて称し始めたのは、中日甲午戦争で清が敗れた時からである。一八九五年、清政府は余儀なく日本政府を相手に、主権を喪失し国が恥辱をこうむる馬関条約(日本では下関条約と言われている)を締結して、近代中国のこうむった恥辱は極点に達した。
ここで日本人が「支那」という言葉に軽蔑を込めたという事があたかも事実であるかのように述べられていますが、根拠はまったく示されておりません。一方、「国が恥辱をこうむる馬関条約」「近代中国のこうむった恥辱は極点に達した」と清国が恥辱を受けたことが感情的に語られています。要するにこの記者は日清戦争が清国あるいはシナ人にとって恥辱であったということ以外、何も言っておりません。

日清戦争がシナ人にとって恥辱であったことは間違いありません。既に述べた通り、もともとシナ人は自国を「中国」と尊称で呼び、周辺の異民族を「夷狄」と呼んで見下していたのですが、その「夷狄」に国を奪われ、その支配者を「天子」「皇帝」と呼ばされていたのが清国下のシナ人の実態です。そしてその「夷狄」の国家が事もあろうに「中国」と名乗っていた訳です。この時点でシナ人にとっては十分屈辱的だったところに、その「中国王朝」たる清国が、こんどはもう一つの中国である日本に屈伏し、古くからの属国の朝鮮を独立させられてしまったわけですから、二重に恥辱な訳です。日清戦争とは朝鮮を属国のままにしようとする清と、朝鮮を独立国にしようとする日本の戦いで、下関条約の第一条では朝鮮の独立が宣言されています。シナ人による古い中華秩序は跡形もなく破壊され、もう一つの中国である日本が、名実共に真の中国になってしまった訳ですから、シナ人にとってとてつもない恥辱だったことは明らかです。

その後日本が大東亜戦争に破れ、満洲国が滅亡した後、シナ人は二つの事をしました。一つは満洲を「中国東北部」と呼び、満洲国の頭に必ず「偽」という文字を付けて呼ぶことでした。もうひとつは、日本人にシナを「中国」と呼ばせる事でした。これは壮大な復讐です。

昔から中国のことを「上国」として尊敬してきた日本人は最初は驚き、
これは不正確な表現です。こういう言い方をさりげなく混ぜるところがシナ人のいやらしいところです。シナのことを「上国」とか「中国」とか呼んで尊んだ日本人がいたことは事実ですが、日本人が皆そう呼んでいた訳ではありません。

日本では元々シナのことを「から」「もろこし」と呼んでいました。江戸時代中期からは、世界標準に習って「支那」と呼ぶ人もでてきました。さて、江戸時代の日本では儒学が官学であったこともあり、シナかぶれの儒学者も多くいました。彼らはシナの本を読んで勉強し、そこに書かれていた通りシナの事を「上国」とか「中国」とか呼びました。一方、国学者らは「日本こそが中国である」と考えていましたから、シナかぶれの儒学者達を手厳しく批判していました。もっとも儒学者が皆シナかぶれだった訳ではありません。山鹿素行という儒学者は「日本こそが中国である」と言っています。

シナ人の「日本人はかつてこうだった」という話は、だいたいまゆつばものです。この後もそういう話が続きます。

続いて勝ったあとの陶酔に走り、町に出てデモ行進を行い、「日本は勝った。『支那』は負けた」と狂気のように叫んだ。
これはあまりに漫画的な物の見方です。そもそも戦勝国の国民が大喜びするのは古今東西を問いません。オリンピックやサッカーのワールドカップでも、勝った国の国民は、叫んだり、踊ったり、ビールをかけあったりして思いきり喜びを表現します。「狂気のように叫んだ」という表現はその当たり前の光景を敗けた側の立場で悪く言っているだけです。またこんな風に騒ぐ人達は実際はほんの一部で、国民の多くはお茶を飲みながら報道を通じて知るというのが本当のところです。それは日本に限った話ではなく、どこの国でもそうです。

一部の人達の当たり前の行動を元に、恣意的な全体のイメージを作り上げるというやり方は、詭弁の最も初歩的なもので、今時こういう言い回しに惑わされる人は少ないとは思いますが、念のため指摘しておきました。

そのときから、「支那」という言葉は日本では戦敗者に対する戦勝者の軽蔑的感情と心理を帯びたものになり、中性的な言葉からさげすむ意味合いの言葉に逐次変わっていった。
これもきわめて漫画的な表現です。この作者は先に、日清戦争前に日本人がシナを「支那」と呼んでいた事実と、日本人がシナ人を軽蔑していた事実を共に認めていながら、「支那」という呼称と軽蔑とは結び付いていなかったと言っています。日清戦争前もそうだったのですから、日清戦争後も事実関係としては何も変わっておりません。日清戦争で変わったというなら、その根拠を示すべきです。

日本人が清国に対して「戦勝者の軽蔑的感情」を抱いていたかどうかは知りませんが、少なくとも日本と清国の間に後を引くような悪い関係はなかったと思います。日本は満洲の地にインフラを築き、学校を作り、軍隊を送って秩序を守りました。満洲は驚くような発展を遂げ、人口も急増しました。清国は日本の明治維新に習って強力な国家になろうとし、日本に大量の留学生を送りました。

十九世紀から第一次世界大戦までのオランダの辞書の中では「支那」に対する解釈は「支那すなわち愚かな中国人・精神的におかしい中国人のことである」となっていた。西洋のその他の辞書では「支那」に対する解釈も大同小異であった。
この方は「支那」が差別語であると強調したいがあまりに、世界中がシナのことをシナと呼び、しかも軽蔑していたことを言ってしまっています。世界中がそうであったと認めてしまっては、日本だけを責める理由がないでしょう。

シナ人に対する軽蔑は今も昔も世界中で変わることはありません。これは呼び方を改めたところでどうなるものでもなく、軽蔑の原因を正すしかありません。今日多くの日本人は、シナ人のことを「チューゴク人」と呼んでいますが、このチューゴク人の日本国内での犯罪発生率は、外国人の中で長年断トツのトップです。日本人は皆、日本にやってくるチューゴク人の犯罪率の高さにうんざりしています。また不法滞在のために偽装結婚をしたり、形ばかりの結婚をしてすぐ家を飛び出して風俗業で金を稼いだりなど、やり方が本当に汚らしいです。またシナの漁民は平気で日本の領海を侵犯して違法操業を繰り返しています。また世界中の一流ホテルのホテルマンに、マナーの悪い観光客を聞くと、決まってシナ人がトップに来ます。彼らは所構わず大声で騒ぎ、痰を吐き、ホテルの設備を汚して平気だからです。

つい先日、日本に住み着いた二人のシナ人をたよりに、その親族と称するシナ人達が大挙して来日し、来日後すぐに48人分の生活保護を申請して大問題になりました。米国でも、毎年5000人以上のシナ人の妊婦が米国国籍取得のためだけに渡米出産をして問題になっています。このように他国の福祉制度を貪ろうという強欲さが世界中で嫌われています。また毒入り食品を大量に輸出し、他国の知的財産や商標を無断で使いまくり、気に入らない事があるとすぐ他国の国旗を破いたり燃やしたり、大使館や外国人学校に物を投げつけたりすると言う民度の低さにも世界の人達はつきあい切れないと感じています。

北米のスーパーマーケットで「チャイナフリー」と宣伝して物を売っているのはシナ人の製品の恐ろしさをみんなが知っているからです。さらにろくに調べもせずに「我が国の側に落度はない」とするシナ政府の傲慢な態度がその恐ろしさを倍化させています。シナ人を「チューゴク人」と呼び替えたところで、「チャイナフリー」が「チューゴクフリー」に変わるだけで、軽蔑が尊敬に変わるはずもありませんからこれは呼称問題とは関係がありません。

また何と言っても、常に周辺国の領土・領海を窺い、領有を宣言をしては侵略を繰り返すシナ共産党政府の恐ろしさ、執念深さを世界の人々は知っています。そういう事を繰り返しておいて軽蔑されないほうがおかしいです。それなのにシナ人は、自分達が世界中で軽蔑されていることを棚に上げて、まるで軽蔑する方が悪いかのように「差別」という言い方をしますが、これも一種の詭弁であり、いよいよ世界中から嫌われる原因となっています。

日本などの外国が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意を込めて呼称することは海外に在住する華僑の間で強い反感を買った。一部の留学生と華僑は日本の新聞社に投書して、日本人が「支那」という言葉を今後使わないで、その変わり「中国」を用いるよう要求した。これによって、中国の国名の呼称をめぐる論争が引き起こされた。一九〇八年、インドネシア在住の華僑はインドネシアを統治していたオランダ植民地当局に抗議を提出し、「支那」という侮辱的な呼称に反対した。中日二十一カ条条約締結、パリ講和条約調印、「五四」運動以降、中国国内では「支那」という蔑称に抗議するより激しいキャンペーンが巻き起こされた。辛亥革命後、中国政府は日本政府に照会し、中国を「支那」と呼ばないよう要求したが、日本側は拒否した。一九三〇年に、当時の中華民国中央政治会議では決議が採択され、当時の中国の国民政府外交部は日本政府に覚書を送った。決議にはこう述べられている。「中国政府中央政治会議は、日本政府とその国民が『支那』という言葉で中国を呼称し、そして日本政府の中国政府に宛てた公式公文にも中国が『大支那共和国』と呼称されているが、『支那』という言葉の意味はたいへん不明確で現在の中国となんらの関係もないため、今後『中国』を呼称する場合、その英語では必ずNational Republic of Chinaと書き、中国語では必ず大中華民国と書かなければならないことを外交部がすみやかに日本政府に要求するよう促す。もしも日本側の公文に『支那』いう文字を使われたなら、中国外交部は断然その受領を拒否することができる」。
ここでシナ人が「支那」という言葉を嫌がったという事ばかり主張されていますが、実際は孫文を始めとして、シナ人自身が「支那」という言い方をしています。「平凡社世界大百科事典」には「支那」について次のように書かれています。
【支那】
外国人の中国に対する呼称。中国人も清末に満州王朝への臣属を拒否する意志をこめて用いたことがある。
「平凡社世界大百科事典」
この事典も他の書物と同じく、シナを「中国」と呼ぶという基本的な過ちを犯しているために、何を言っているのか分かりにくくなっていますが、「中国」をシナに置き換えれば意味が明らかになるはずです。彼らは独立した民族であることを主張するために、清国人と呼ばれる事を嫌い、自ら漢民族の領土を支那と呼び、漢民族を支那人と呼んだのでした。つまりシナ人にとって「支那」とは、侮蔑語どころか、独立の精神を表現した崇高な言葉だった訳です。もちろんすべてのシナ人がそのように考えていたと主張するつもりはありません。

シナ人が「支那」という呼び方をしなくなったのは辛亥革命の後です。辛亥革命によって清から独立したシナ人達は、それまでの清の領土すべてを「中国」と呼んですべて自分の領土であるということにしてしまいました。ところが日本人はシナの歴史をよく知っていますから、チベット、ウイグル、モンゴル、満洲の各民族の領土はシナではない事をよく知っています。これは彼らにとってとても都合が悪いことです。一方「中国」という括りにしてしまえば、すべてが国内の話になり、そこで何をしても「内政問題」にできます。シナ人がチベット、ウイグル、モンゴル、満洲の各民族の領土を侵略している事実は、彼らの言い分では「古来『中国』という名の多民族国家が存在する」になる訳です。逆に日本が協力した満洲国の建国は「日本による中国への侵略」ということになる訳です。

先年行われた北京オリンピックの開会式の時、シナ政府は大勢の子供達を引っ張り出して「中国 56民族の子供達」などとさかんに言っていました。いつのまにか 5民族が10倍以上にふくれ上がっていますが、一般に侵略が行われた地域では、多民族国家ということがことさらに吹聴され、民族数の多さが宣伝されます。そうすることで侵略地域の先住民の存在を希薄化できるからです。ちなみにこの時の子供達のほとんどは、実は様々な民族衣裳を着せただけの漢民族の子供達であったことが後日明らかになっています。

一九三〇年末から、日本政府の公文は全部「支那共和国」を「中華民国」に改められたが、社会一般の書面用語や話し言葉では依然として中国が「支那」と軽蔑的に呼称され、中国侵略の日本軍が「支那派遣軍」と称され、中国人が「支那人」と呼ばれていた。第二次世界大戦終結後、中国は戦勝国として代表団を東京に派遣し、一九四六年六月「命令」の形で日本の外務省に今後は「支那」という呼称を使ってはならないと通達した。同年六月六日、日本外務次官は各新聞社、出版社に、日本文部次官は七月三日各大学の学長宛に、「支那」という名称の使用を避けるようにという内容の公式公文を前後して配った。
この作者は、「日本がシナを『支那』と呼んではならない」ことの根拠を主張したいが余りに、「支那」と呼ぶなと力づくで強要した歴史を「命令」という言葉を使って自ら語ってしまっています。今日の多くの日本人は、この手の野蛮な強要を不快に感じるでしょう。「シナ人は嫌がっている」とだけ言っておけば、多くの日本人は「嫌がっているのなら使うのはよそう」と考えるものですが、ここで語られている真相はそれとはかなり違う話です。今日の私達がこのような馬鹿げた命令に従う必要がどこにあるのでしょうか?シナを「中国」と呼ぶことをいますぐやめましょう。自分のためだけではなく、将来生まれて来る子孫のためにもいますぐやめるべきです。
戦後、特に新中国建国以後、「支那」は次第に死語となり、用いられなくなった。しかし、日本の社会において、今でもごく少数の右翼分子は依然として故意に中国を「支那」と呼び、ごく少数のものは飲食店のおそばのことを「支那ソバ」と言っている。日本で出版されている一部の地図にも中国の東中国海を「東シナ海」(「支那」の二文字を片仮名に変えただけ)と称していて、広範な華僑同胞の反感を買った。
今でも当たり前に「支那」が使われていることをわざわざひっぱりだして説明してくれていますが、他にも「支那竹」などもそうです。戦前は誰もがシナを「支那」と呼んでいたのですから、いまだに「支那」と呼ぶ人達もいて当然です。敗戦という歴史的な背景があるからと言って、子供の頃に教わって使い慣れた言葉をそんなに簡単に捨てられるはずがありません。お年寄りの中にいまだにシナを正しく「支那」と呼ぶ人がいるのも、また彼らが「中国」と言う時、正しく山陽・山陰を合わせた地域を思い浮かべている事があるのも、共に不思議ではありません。彼らは普通の人であって「ごく少数の右翼分子」などではありません。実際彼らが「中国」と言う時、それが何を差しているかは前後の脈絡から判断するしかありません。
東京で料理店を経営しているある華僑は「支那」という呼称をなくすよう、数十年もたゆまぬ抗争を続けている。この華僑はお店のマッチ箱や箸袋に悲憤をこめて、謹しんで申し上げる、と次のように書き入れている。「……日本の人が中国を『支那』と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。……」と。ある人は怒りをこめて、中国を「支那」と呼ぶことは以前西洋人が日本人のことを「ジャップ」と呼び、東方の人たちが日本を「倭」と呼ぶのと同じではないか、どうして中国人民の感情を尊重しないのか、とただした。
こういう話を聞くと日本人は、「このような思いの人がシナ人の大多数なのだろう」とうかつにも思い込みます。そして懸命さに打たれ、「支那と呼ぶのはやめよう」と考えてしまいがちです。しかし冷静に考えると、ここに書かれているのは一人のシナ人が嫌がっているという事実だけです。これだけの事実から、シナ人の大多数が嫌がっていると考えるのはあまりに早計です。また「支那」をいやがるシナ人というのは大体決まって日本にいるシナ人か、留学等で日本にいたことのあるシナ人です。こういう人達は日本人と同じように、「支那は差別語である」と根拠もなく教えこまれているはずです。

この華僑の言い分をおかしいと思わない人はおめでたい人です。なぜかと言うと、仮にこの言い分を受け入れると、たった一人のシナ人が何の根拠も示すことなく「差別と感じる」と言いさえすれば、すべての日本人のすべての言動を規制できることになってしまうからです。これを制度化しようとするのが「人権擁護法」という恐ろしい法律です。

正当な要求であるというならば、「支那」が差別語である客観的な証拠を示すべきです。またシナ人が「支那」という言葉を嫌がっていると主張したいなら、正当な方法で統計を取ってみるべきです。加えて、シナもしくはシナと類似の発音でシナを呼んでいるすべての国にも等しく抗議をするべきです。「過去の暗い記憶を思い出すからやめて欲しい」と言うのであれば、せめてもっと礼儀正しくお願いするべきです。言うことを聞かなければすぐに「差別」といって脅すようでは、やくざの言いがかりと変わりません。

客観的な事実は、シナは世界中からシナもしくはシナの変形で呼ばれているということです。「支那」も「シナ」も決して差別語ではありません。国父・孫文も文豪・魯人も自国の事を「支那」と言っています。

日本では、孫文もかつて「支那」という呼称を使ったことがあるではないかと弁解する人もいる。孫文は一八九九年、一九〇三年の少数の場合に確かに「支那」という言葉を使ったことがある。当時は「支那」という言葉がさげすむ意味へと変わる初期にあったことも理由の一つとしてあげられよう。一九〇五年以後、「支那」のさげすむ意味が逐次濃厚になり、そのときから孫文は二度と「支那」を使わなくなり、そのかわり「中国」を用いるようになった。もう一つの理由は、孫文は革命者として、「支那」は清王朝と等しいと考え、「中国」はその革命を進めて樹立をめざす中華民国であり、中華民国の建国以前「支那」と呼称したのは清王朝を指すものであって、辛亥革命後、「中国」と改称した。
「孫文は革命者として、『支那』は清王朝と等しいと考え」というのは大嘘です。革命とは清国下のシナ人の民族独立運動の事で、清国の中の漢民族の領土を「支那」と呼んでいました。

支那(シナ)と清国の関係は下記の地図の通りです。この地図全体が清国の支配領域です。そして一般に支那とは、「漢族」と書かれた領域のことです。清の領土とほぼ等しいのは清国を乗っ取った中華民国の方です。革命勢力が辛亥革命後に「支那」という呼称を使わなくなったのは、革命の目的が民族の独立から、清国の乗っ取りに移行したからです。「支那」はあくまで漢民族の領土だけを表す言葉だからです。

既に述べた通り、「支那」という言葉はシナの民族独立の精神を表現した崇高な言葉です。「日本人がさげすむ意味で使ったから」という理由だけで使わなくなったというのは、相当説明に無理があります。

清代の民族分布

『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著 より引用

「中国」という語は最初は『詩経』の中に出ていて、首都、みやこを指すものであった。その後、漢民族、華夏族の居住地を指し、当時の中原漢民族以外の地は「四夷」と称され、「東方の一隅が中国となり、残ったのは皆夷狄」ということだったのである。漢民族、華夏族の居住地が中央部にあって、「中国」と称され、すなわち中央の国であり、それは地理的概念であった。おおむね十九世紀中葉になって「中国」という名称はようやく国家という概念として現れ、辛亥革命によって初めて正式に中国が国名として定着した。一九一一年十月十一日、革命軍は諮議局で十三カ条の重要方針を議定したが、その第二条は「中国を中華民国と称する」ことである。一九四九年、中華人民共和国が成立し、毛沢東主席は天安門城楼でおごそかに「中国人民はこのときから立ち上がったのだ」と宣言した。そのときから中華人民共和国が新中国の正式の呼称となったのである。

(1999年5月7日付け『人民日報』)

「中国」が元々普通名詞であったこと、そして国名として使われたのは辛亥革命後であることが、他でもないシナ人によって正確に説明されています。「国家概念としてあらわれ」の部分は清国が中国王朝を名乗ったことをさしていると思います。しかしその清国に関して、重要な事実が外されています。その事実とは、満洲人がシナ人から見て「夷狄」であったことは、万里の長城がシナと満洲の境にあることからも明らかです。万里の長城とは、シナ人が北方の異民族からの攻撃に備えたものだからです。

シナ人は辛亥革命によって清国からの独立を果たし、清国が「中国」と名乗ったことを逆手にとって、新たに作った国家を「中国」と呼びました。それは清国の乗っ取りを意味し、シナ人にとって完全な外国であったチベット、ウイグル、モンゴル、満洲の各民族の領土の領有を勝手に宣言するものでした。その時からそれらの地域への侵略が始まりました。彼らは今になって「中国という名の多民族国家」という言い方をしますが、これは自らの侵略行為を正当化するためのものです。多くの人が漠然と抱いている「古くから切れ目なく続く国家・中国」などというのは幻想に過ぎません。そんな国は存在しません。それはシナ共産党政府の宣伝に過ぎません。「○○は古来中国の領土(領海)」という言い回しは、彼らが侵略を行う際の常套句です。

さてではこれらの地域を、私達は「中国」と呼ばずに何と呼べば良いのでしょうか。簡単です。昔のまま、シナの事はシナ、満洲は満洲、チベットはチベットというふうに呼べばいいだけです。

[2010/8/19]

(2011年1月26日追記)
一人のシナ人が、シナと中国について次のように語っています。

私はシナで出身したが、自分自身は中国人であると思わない。私の祖父、祖母、両親を含む、シナ人は誰も「中華人民共和国政府」を選択していない。チベット、南モンゴル、ウイグル、満洲人は誰も中国人になるかどうか決める権利がない。だから中華人民共和国政権自体、非合法政権である。私はこの政権が存在する正当性を認めない。

中国つまり中華人民共和国は、シナ共産党がシナ大陸で勝手に作った共産党の国であり、ほかの民族への野蛮な侵略、強行合併の上に成立した国。シナ漢民族を含めシナ大陸で生活している諸民族の人々を代表することができない。CHINAの支那(シナ)以外の呼び方は、シナ共産党政権の合法性、正当性を認めている。私のような反支那共産党の人にとって、それは絶対に認めることができないことだ。
なぜCHINAを「中国」と呼んではだめなのか?より引用)

シナ人であっても正しい認識を持った方はこの通りです。「シナ」が差別語でないことはいよいよ明らかです。

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